これはすべての歌舞伎の名跡の中でもっとも多い代の数字です。
江戸荒事の宗家と呼ばれる市川団十郎でさえ、現団十郎が十二代。
将来、市川海老蔵が襲名すれば十三代目ということになります。
初代勘三郎は「猿若勘三郎」といって、舞の演者でした。
それが江戸時代に歌舞伎興行が確立していくなかで、
座元(興行主)となり、時代を下るにしたがって、役者ではなく
座元の名前となりました。
明治にって興行形態も変わり、名前を継ぐ人がいなくなって、
新しい興行主の松竹が名前を長くあずかっていました。
それを、昭和に入ってから、亡くなった勘三郎のお父さんが
十七代目として襲名しました。ですから、当然十七代、十八代親子と、
初代との血縁はまったくありません。
十七代目から、新たに世襲が始まったわけです。
同じような昔の座元名にはほかに「守田勘彌」があり、
本来でしたら先代の芸養子である坂東玉三郎が継ぐべき
ところなのですが、どうやら玉三郎は現在の名前のまま
役者人生をまっとうするつもりのようです。
江戸の座元の大きな名前にはもう一つ「市村羽左衛門」があり、
その十五代目は戦前、歌舞伎史上に残る二枚目俳優として
活躍しましたが、その死後七十年近くも継承者は現れていません。
歌舞伎の名跡は血縁による世襲というイメージがありますが、
先代勘三郎の例のように、必ずしもそうではなく、今年話題に
なった香川照之の歌舞伎デビューで、彼が襲名したのは「市川中車」ですが、
彼と先代の中車との間に血縁関係はありません。
「宗家」の市川団十郎でさえ、明治に「劇聖」と謳われた九代目が
亡くなった段階で、江戸以来の血筋は絶えました。
現団十郎の祖父が、九代目の弟子だった関係から、その子が
団十郎を継ぐことになり、孫が現、十二代目として継いでいるのです。
途中で絶えた名跡の世襲が、戦後になって新たに始まった、
と言っていいかもしれません。