正岡子規と夏目漱石は学校の同窓で、同い年の親友。
内田百閒は漱石の弟子です。
ただし、子規は三十五歳で亡くなっており、漱石が「吾輩は猫である」で
作家デビューしたのはその三年後ですから、百閒と子規は一度もあっていません。
子規と漱石には寄席や俳句といった共通の趣味がありましたが、
それとは別に「小鳥好き」という意外な共通点がありました。
漱石の作品に「文鳥」という小品がありますが、実際に飼っていて、
死んだ文鳥は自宅の庭に、例の小説のモデルとなった「猫」といっしょに
埋められたといいます。
一方の子規は若くして肺結核を患い、晩年は自宅でほとんど寝たきりの状態でした。
その苦痛を慰める意味もあって、庭に大きな鳥かごを設け
(友人が子規のために用意してあげたといいます)、そこに10種類もの
小鳥を飼い、座敷からながめるのを楽しんでいました。
籠は自宅用のものではなく、動物園の「小鳥コーナー」で使うような大きなもので、
たくさんの違った種類の鳥たちが飛び回る光景は圧巻だったろうと思います。
子規の死を、親友漱石は留学先のロンドンで知ります。留学中、漱石は
ノイローゼのようになって、帰国後も精神の安定しない時期を過ごしました。
その「気晴らしに」と小説を書くことを勧めたのが、俳句仲間の高浜虚子。
その勧めを受けて漱石は「吾輩は猫である」を書いて、たちまち人気作家に
なったのです。
成功した漱石を慕って、多くの若者が門を叩きました。
芥川龍之介もその一人。そして、内田百閒も同門となりました。
百閒の小鳥好きは、また桁違いで、狭い自宅に40羽もの小鳥を
飼っていました。
小鳥は種類もまちまちですので、一羽ずつ別の小さな竹籠に
入れていました。
その大量の籠を大八車に乗せて引っ越しをした時、
それを見た近所の人が「鳥屋さんが越してきた」と思ったそうです。
その百閒が、自分の飼っているいる小鳥を着物の懐に入れて、
漱石に見せにいったという、ほほえましいエピソードも残っています。
以上、3人の文豪の意外な「小鳥好きつながり」の話でした。