現在オンエア中のフジカラーのCМで、スタンダードナンバー
「私の青空」が使われています。
歌詞を変えていますが、オリジナルの日本版は
「夕暮れに仰ぎ見る、輝く青空。~狭いながらも楽しい我が家」と
いう歌詞で、文字で見ても自然にメロディが浮かんでくる人も、
特に中高年には多いはずです。
スタンダードナンバーは数あれど、この歌ほど長寿の曲は珍しい。
オリジナルは1927年、といいますから昭和2年、いまから
88年前に発表され、大ヒットしました。歌手はジーン・オースティン。
日本でカバーされたのは翌、昭和3年。その「輸入」の速さには
驚かされますが、時まさに昭和モダニズム、「モボ、モガ」の時代。
時代を象徴する音楽でもあったのです。日本版の歌唱は二村定一と天野喜久代。
二村は、作家の色川武大が「流行歌の鼻祖」と称したように、
日本の歌謡曲歌手の先駆者です。
当時音楽学校の学生だった藤山一郎(のちの、国民栄誉賞受賞歌手)が、
二村にあこがれ、クラシックの声楽家ではなく流行歌手になった、
というエピソードがあるくらい、二村は大変なスターでした。
二村はその後榎本健一(エノケン)と一緒に一座を組んで、
浅草の興業界を席巻します。しかし、しだいにエノケン人気が高まり、
二村は添え物のようになって行きました。
呼称も「エノケン一座」というように変わっていきます。
かつては頂点にあった二村は二番手に甘んじ、そのストレスから酒におぼれ、
自堕落になっていったのでした。エノケン主演の映画でははっきり脇役になって、
けれど舞台には立ち続けました。
しかし、結局、昭和23年舞台で倒れ、帰らぬ人に。48歳という若さでした。
独身だった二村の葬儀は、彼がかわいがっていた慶応大学の男子学生たちが
とりしきったといいます。
不遇な後半生を送った「日本流行歌の先駆者」は、最後の最後で、
もっとも幸せな旅立ちをした、といっていいかもしれません。
ちなみに、昭和36年の日本レコード大賞曲の「君恋し」も、オリジナルは
二村定一です。フランク永井が悲劇的な後半生を送ったことを思えば、
なにか因縁めいたものを感じさせられます。